1987年10月1日から1989年3月31日まで1年半西ドイツミュンヘン工科大学(Technische Universität München)農業園芸学部に客員研究員として席を置いた。席を置いたというのは、居場所として部屋に机と椅子を用意してくれたという意味である。居場所は農業園芸学部農業経営学講座であった。正式名称は Institut für Wirtschaftslehre des Landbauesで Institutを直訳して研究所とすると誤訳となり、研究室や講座(Lehrstuhl)と訳すのが適している。日本の大学の講座に対応し、教授が1人で、他に研究・教育スタッフ(日本的には助教授(准教授)、講師、助手(助教))4,5名と事務スタッフ4,5名がいた。この事務スタッフの男性に、農業経営学講座が管理している農場の担当者がいた。農業経営学講座に農場が付属していたのは、実学を重視する表れと言える。それ以外に、博士課程大学院生(Doktorand)2名、留学生が私以外にベトナムから1名来ていた。総数で15名前後というところである。休憩時間、カフェーパウゼ(コーヒー休憩:Kaffeepause)が午後にあり、教授を中心に雑談タイムがあった。秘書が「カフェー」と呼びに来た。教授はH.Steinhauser であった。図書室もあり、いかに研究体制が充実しているかがわかる。写真の右がInstitut für Wirtschaftslehre des Landbauesの建物である。確かに、この建物全体がInstitutなので、研究所と言ってよいほどであるが、他の講座、例えばAgrarpolitik(農業政策学)の講座は、隣に同様な建物であった。日独の大学を比較して同じ講座でもこれだけの差があるのは大学のそもそもの位置づけの違いを感じる。(写真撮影:四方康行 1988年)

場所はフライジングの駅から歩くと30分ほどかかるヴァイエンシュテファン(Weihenstephan)の丘にある。なお、ミュンヘン工科大学はミュンヘン市内にあるが、ここは農学・醸造関係の大学であり、その歴史は、「1852年に中央農業学校がシュライスハイム(Schleißheim)からヴァイエンシュテファン(Weihenstephan)に移り、それと共にバイエルンの醸造生と一緒になった。 1895年に学校はアカデミーに、1919年に農業・醸造大学に昇格し、1930年にミュンヘン工科大学に統合された」(1852 zog die landwirtschaftliche Zentralschule von Schleißheim nach Weihenstephan und mit ihr die bayerischen Brauschüler. 1895 wurde die Schule zur Akademie und 1919 zur Hochschule für Landwirtschaft und Brauerei erhoben, um 1930 in die Technische Universität München aufzugehen.)
( https://www.braeustueberl-weihenstephan.de/biergarten.html
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