
ドイツの大きな都市には、必ずと言ってよいほど、シュトラーセンバーン(Strassenbahn:路面電車、市電、トラムTramとも言う)が走っている。上の写真は1987年10月12日にSバーン(S1)でフライジング(Freising)からミュンヘン中央駅(Hauptbahnhof Muenchen:ハウプトバーン ホーフミュンヘン)に行き、駅前の市電に乗って、対向の電車20(Moosach行き)を車内からとったものである(写真右側に車内の窓が写っているので)(写真撮影:四方康行)。MoosachはSバーン、レギオナルツーク(Regionalzug)の駅でもある。路面電車の下には地下鉄(ウーバーン:U-Bahn)が走り、路面にはバスも走り、中央駅からはSバーン、レギオナルツーク(Regionalzug)や特急、ICE(イーツェーエー:Intersity-Express)などが出発する。ミュンヘン、フランクフルト等、同じである。ミュンヘン交通局が出しているトラムの地図を示す(MVVホームページ Netzpläne mit Tarifzonen https://www.mvv-muenchen.de/ より)。
下に、

ここで、当時、思い出すのは、なぜ、京都は市電を廃止したのかということである。私は生まれて30数年、小中高大学と京都で過ごした。市電の廃止が言われたのは、大学に入って間もないころである(昭和45年入学)。市電廃止と言われたときは、東京や大阪がそうであったように、地下鉄ができればやむを得ないのかという程度であった。しかし、京都は地下鉄はわずかしか発展せず、市電の便利さは代えがたいものがあった。
京都の市電が廃止された経緯は「1969年(昭和44年)、富井清市長の在職時に京都市の新たな交通計画(十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網)が可決され、外周線を除く市電の撤去が定められた。この背景には、累積赤字で交通局が財政再建団体に指定され、自治省(当時)からの利子補填などの支援・監督を受けるに当たり、赤字事業の縮小として路面電車の撤去が求められるという事情もあった(これは京都に限らず当時の多くの公営路面電車が直面した)。市民による存続運動も行われたが、市は拒否。1976年(昭和51年)に全面撤去へと計画を変更したのち、地下鉄開業にそなえ1978年(昭和53年)に全面廃止され、83年の歴史に幕を閉じた。」(ウキペディア「京都市電」京都市電 - Wikipedia )
全面廃止された1978年(昭和53年)時の市長は船橋求己氏で「京都帝国大学経済学部を卒業後、京都市役所に入庁。研修時代には交通局に所属し、市電の運転も行った。」と。なお、船橋氏は1971年から1981年7月まで市長を務めた。(ウキペディア「船橋求己」舩橋求己 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/舩橋求己)
思うに、当時の市長らがドイツやヨーロッパの状況を視察していたらこのようなことにはならなかったのではと考える。
下に、ウキペディアより、京都の当時の市電地図を載せる。


(ウキペディア「京都市電」京都市電 - Wikipedia ) より
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